シャボン玉のお散歩

アート・読書案内・旅など日々の徒然を綴ります。

三浦綾子 『母』を読み、「イエス涙を流し給う(Jesus wept)」に心慰められる。

今週のお題「おかあさん」

幾つになっても、母が大好き  ぐるぐるです。

久しぶりの読書です。

「2月20日小林多喜二の命日です。母が多喜二の手首、太腿が腫れ上がった遺体を目にした時、警察発表の死因 心臓麻痺でしたが、誰がこんな目にと嘆き悲しんだ日でもあります。…小林多喜二の母の話を三浦綾子  が小説にしている…」というようなことを、ある時、新聞のコラムで遅まきながら知り、三浦綾子 『母』を手に取りました。 

f:id:biobio33:20180513083918j:plain

三浦綾子といえば、キリスト教と何かしら繋がりを持つテーマの作品のイメージが強く、小林多喜二、その母セキさんとキリスト教がどのような関 わりがあるのかと?疑問でした。小説のあとがきに、三浦綾子自身も、小林多喜二のこともあまり知らないし、共産主義のことにも疎く、多喜二の母について書くことに戸惑いがあったが、多喜二の母がキリスト教信者(受洗者)であると、綾子の夫からの勧めで書くに至ったとか記されています。

小説ではあるけれども、小林多喜二の母セキさん88歳が 、自分の生い立ちから多喜二や家族のことを語っている形で話が進むので、ある意味、ドキュメンタリータッチです。

貧しくても優しさと明るさに満ち溢れた家庭環境であったこと、それが多喜二の優しさに繋がり、さらには、「みんなが公平で仲良く暮らせる世の中を夢見て働いてるんだ。小説ば書いているんだ。...」という多喜二の言葉、権力の不正に立ち向かう姿勢に繋がっていったのだと、全編を通じて感じさせられました。

蟹工船」を世に出してから、多喜二が特高に目をつけられ、最期は悲惨な死を迎えてしまうくだりでは、遣る瀬無さと母セキさんの悲しみだけではなく、悔しさとか、どんな思いでお話しされたのかと思うと、胸が熱くなりました。

小説の最後に、親交がある近藤牧師に、母セキさんは、「多喜二が悲惨な死を遂げて、30年経っても2月が来ると、心が暗くなる。」と話し、その胸中を書き綴ったものを見せます。近藤牧師は窓の向こうの海に目をやり、沈黙の末、聖書の一節「イエス涙を流し給う」という言葉を指し示します。近藤牧師も涙を流し、読者のぐるぐるにも静かに頬を伝わるものを感じました。

そして、神様も、愛する者を失くし嘆き悲しむ母セキさんや私たちに寄り添い、涙してくれるのですね。そこに、キリスト教のいう救いがあるのかもしれません。

さて、いまの世の中、多喜二が夢見ていた世の中になったでしょうか? 

テロ等準備罪と名乗りながら、戦前の治安維持法を復活させるような共謀罪が施行されたり、憲法改正が声高に叫ばれたり、時代が逆行しているような空気がないでしょうか。

多喜二の母セキさんのような思いをさせない世の中であって欲しいものです。

母の日に…

Jesus wept…