シャボン玉のお散歩

アート・読書案内・旅など日々の徒然を綴ります。

プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光

情熱の赤いバラ、マドリードカルメンこと、ぐるぐるです。オ・レ!

国立西洋美術館で開催のプラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光』に行ってきました。日本スペイン外交関係樹立150周年記念の展覧会です。

f:id:biobio33:20180420170743j:plain

展覧会副題にあるように、ベラスケスの傑作が7点もやってくるというので、これは、行くしかないでしょう。「ラス・メニーナス」などは、プラド美術館門外不出なので、それ以外のベラスケスが見られるだけでもうれしいことです。

ベラスケスの肖像画には、どれもリアルな空気感や、迫力が備わっています。ひとえに、その卓越した技量と表現力によるものでしょう。

特に気になったベラスケスの作品は、《メニッポス》(1638年)です。

《メニッポス》は、古代ギリシャの哲学者を描いた肖像ですが、この絵の中のおじさんは、どこにでもいるおじさんとして描かれています。ベラスケスは、神話や偉人を様式美として描くことをしなかったのです。彼の考える「リアル」の追求がそこにあります。

この絵と対照となるルーベンス(工房)の哲学者のイメージ《泣く哲学者ヘラクレイトス》(1636-1638年)も、旧来の定型化・様式化した肖像画とは異なっていますが、頬杖をつく哲学者のポーズ、彼の左目から伝う涙、背景の岩屋など、聖者然とした風貌に作り上げられた姿は、正に隠者としての哲学者の像で、やはりルーベンスは様式の画家なのだと感じさせられます。

一見すると、ベラスケスよりルーベンスの画の方が哲学者を描くというテーマに沿っているように思われます。(画像はスクリーンショットです。)

f:id:biobio33:20180420171017j:plain

しかし、ぐるぐるは、ベラスケスの画と暫し対峙していて思い至りました。

ベラスケスの描きだしたこの像にこそ、中世以来のヨーロッパに通底する哲学者の理想像が表れているのではないかと。それは、サン=ヴィクトールのフーゴーの言う哲学者の姿ではないのかと思いました。

現代の一般的な日本人が考える哲学の範囲は、論理学や道徳くらいだと思うのですが、フーゴーのいう哲学は、神学、数学、政治学、経済学、商学、農学、医学、演劇、論理学…と、人間社会、人生のほぼすべての分野の学問を包含しています。

フーゴーは、これらの学問を究めることが重要であり、そして、学問を究めた後、学修者はどう生きるべきかを説いています。

「本当に優れた学者は、学問を究めた後、陶工の仕事についた。」

「(ある哲学者の弟子の言葉として)私らの先生は、靴直しの技術に熟練していました。それゆえ、先生を尊敬しています」

学問を修めた後、人はその学問さえも忘れて、生活者として生きるということを言っているのではないのでしょうか。

中島敦の『名人伝』で描かれる弓の名人や、仏教の真の覚者は、山に籠り修業し悟ったならば、山に留まるのではなく再び里に下りその教えを説かねばならない、という教えにも通ずるものを感じます。

 ルーベンスの描く哲学者は、隠者としての哲学者、いわばギリシア正教世界の聖者のような存在。

対するベラスケスの描く像は、正に「靴職人」として俗世に存在する哲学者なのです。

《メニッポス》に、学問に生きる人間のしなやかさを見た思いです。

ぐるぐるは、学問の世界から身を隔てたことを今更ながら後悔するのです。だけれど、「靴屋」としての哲学は続けていきたいと思い続けています。

artexhibition.jp

広告を非表示にする